猫山虎吉の思い出話
久々に、妄想小説などを書いてみようと思います。
初めまして、私は今年定年を迎えた、猫山虎吉といいます、名前だけは勇ましいのですが。とんと腰抜け野郎で、これといった特技もありませんが、この度、黒猫から、私の思い出話を書けという話がありまして、固辞したものの、何でも良いから書いて欲しいと頼まれたため、面白くなくても責任は取れませんよとお断りしたうえで、お話を続けさせtいただこうと思います。
私が、国鉄に就職して初めての職場が和歌山機関区でした。
もうかれこれ、40年近く前の話で有り、記憶も怪しくなっているのでどこまでお話が出来るか判りませんが、まぁ爺の話を聞いてやってくださいませ。
私が国鉄に採用されたのは、昭和52年でした。
和歌山機関区の検査係として採用されたのです、翌年には紀勢本線が和歌山から新宮まで電化される事もあり、紀勢本線では電化工事が行われ、かつて客車区があった紀和駅裏の構内は、電化の機材などが運び込まれているのでした。
当時は、和歌山機関区も、気動車の配置から電車区への転換が噂されましたが、組合の反対もあり、気動車区として残ることとなりました、
組合が頑張って合理化に反対したので、職場が守られたんだと、自慢げに分会長害って居たのが思い起こされます。
もっとも、和歌山線や、紀勢本線の和歌山~和歌山市間も非電化のまま残っていましたので、気動車基地が残るのはある意味必然と言えるかもしれませんし、交渉の過程からでしょうか、電化開業後も、急行列車は気動車で残ることが伝えられました。
この頃は、国鉄ではマル生運動の後遺症で、当局よりも組合が力を持っている、そんな感じでした。
さすが、組合は強いなぁと、18歳を少し回った程度の若僧は、感心するのでした。
さてさて、前置きが長くなったのですが、当時の私の仕事は。検査係でした。
と言っても、一人前に検査が出来るわけでもなく、先輩について教えを請うばかりでした。
縦型エンジンと呼ばれる、エンジンのシリンダーが上を向いていて、点検するときは車内からカバーを開けないといけないタイプもあれば、横型エンジンと言って、シリンダーが横向きになっているものが有ったのですが、基本的な構造は同じなので、横型エンジンを覚えておけば良いと良く言われたものでした。
今日も大先輩の黒沢班長と一緒に交番検査をしていたときでした。
黒沢班長は、当時58歳で、娘さんも息子さんも片付いて、夫婦二人だけの生活です、楽しみと言えば、嫁に嫁いだ娘が孫を連れて帰ってくるのが楽しみだと、柔和な微笑みを浮かべるのでした。
息子は、遠くなので中々帰ってこれず、電話越しに話をするのだと言って細い目を更に細くして笑うのでした。
さて、班長と一緒に検査をしているのは、ブルドッグと呼ばれる、特急気動車でした。
黒沢班長は、
「こいつは5年ほど前にうちに来たんだが、こいつは先頭車に発電用エンジンがあるんだ」
と言って、ボンネットを開けるのでした。
ボンネットを開けるとDMH17Hエンジンが枕木と同じ方向に据え付けられているのが見えます。
私は、思わずへーと言いながら、相づちを打つと、班長は嬉しそうに、更に話をしてくれるのでした。
「こいつは、元々東北で使っていたそうだが、電車化になったかで、和歌山にやってきたというわけさ。
途中で切り離すわけに行かないから、天王寺~名古屋間を走るくろしお専用というわけだ。」
私は、鉄道が好きですが、そんなに詳しいわけでもなく、こうして教えて貰うこと一つ一つが大変興味深かったのです。
「猫山、お前は鉄道が好きか?」
いきなりの質問に一瞬言葉が詰まります、
黒沢班長は、笑いながら。
「なに、そんなことどうでも良いんだよ。でもな、これだけは覚えておけよ。俺たちの仕事は、完璧に整備して送り出すことなんだ。
もし途中で、故障して動かなくなったとなったら、俺たちの恥だからな」
強い口調で、それでいて、自身にも言い聞かせるように話しかけるのでした。
私は、思わず。
「はい。判りました」
そう言うと、黒沢班長は、笑いながら。
そんな畏まっていうことはないさ、他だな、ワシもそろそろ引退しようと思うからな。
若い、猫山に少しでも教えておいてやろうと思うんだ。
故障を発見するというのは、経験が一番大きいからな。
そう言って、エンジンの点検するこつを語り始めるのでした。
続く