2020年10月14日 (水)

猫山虎吉の思い出話

久々に、妄想小説などを書いてみようと思います。

初めまして、私は今年定年を迎えた、猫山虎吉といいます、名前だけは勇ましいのですが。とんと腰抜け野郎で、これといった特技もありませんが、この度、黒猫から、私の思い出話を書けという話がありまして、固辞したものの、何でも良いから書いて欲しいと頼まれたため、面白くなくても責任は取れませんよとお断りしたうえで、お話を続けさせtいただこうと思います。

私が、国鉄に就職して初めての職場が和歌山機関区でした。

もうかれこれ、40年近く前の話で有り、記憶も怪しくなっているのでどこまでお話が出来るか判りませんが、まぁ爺の話を聞いてやってくださいませ。

私が国鉄に採用されたのは、昭和52年でした。

和歌山機関区の検査係として採用されたのです、翌年には紀勢本線が和歌山から新宮まで電化される事もあり、紀勢本線では電化工事が行われ、かつて客車区があった紀和駅裏の構内は、電化の機材などが運び込まれているのでした。

当時は、和歌山機関区も、気動車の配置から電車区への転換が噂されましたが、組合の反対もあり、気動車区として残ることとなりました、
組合が頑張って合理化に反対したので、職場が守られたんだと、自慢げに分会長害って居たのが思い起こされます。

もっとも、和歌山線や、紀勢本線の和歌山~和歌山市間も非電化のまま残っていましたので、気動車基地が残るのはある意味必然と言えるかもしれませんし、交渉の過程からでしょうか、電化開業後も、急行列車は気動車で残ることが伝えられました。
この頃は、国鉄ではマル生運動の後遺症で、当局よりも組合が力を持っている、そんな感じでした。

さすが、組合は強いなぁと、18歳を少し回った程度の若僧は、感心するのでした。

さてさて、前置きが長くなったのですが、当時の私の仕事は。検査係でした。
と言っても、一人前に検査が出来るわけでもなく、先輩について教えを請うばかりでした。


縦型エンジンと呼ばれる、エンジンのシリンダーが上を向いていて、点検するときは車内からカバーを開けないといけないタイプもあれば、横型エンジンと言って、シリンダーが横向きになっているものが有ったのですが、基本的な構造は同じなので、横型エンジンを覚えておけば良いと良く言われたものでした。

今日も大先輩の黒沢班長と一緒に交番検査をしていたときでした。
黒沢班長は、当時58歳で、娘さんも息子さんも片付いて、夫婦二人だけの生活です、楽しみと言えば、嫁に嫁いだ娘が孫を連れて帰ってくるのが楽しみだと、柔和な微笑みを浮かべるのでした。
息子は、遠くなので中々帰ってこれず、電話越しに話をするのだと言って細い目を更に細くして笑うのでした。

さて、班長と一緒に検査をしているのは、ブルドッグと呼ばれる、特急気動車でした。

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黒沢班長は、

「こいつは5年ほど前にうちに来たんだが、こいつは先頭車に発電用エンジンがあるんだ」

と言って、ボンネットを開けるのでした。

ボンネットを開けるとDMH17Hエンジンが枕木と同じ方向に据え付けられているのが見えます。

私は、思わずへーと言いながら、相づちを打つと、班長は嬉しそうに、更に話をしてくれるのでした。

「こいつは、元々東北で使っていたそうだが、電車化になったかで、和歌山にやってきたというわけさ。
途中で切り離すわけに行かないから、天王寺~名古屋間を走るくろしお専用というわけだ。」

私は、鉄道が好きですが、そんなに詳しいわけでもなく、こうして教えて貰うこと一つ一つが大変興味深かったのです。

「猫山、お前は鉄道が好きか?」

いきなりの質問に一瞬言葉が詰まります、

黒沢班長は、笑いながら。

「なに、そんなことどうでも良いんだよ。でもな、これだけは覚えておけよ。俺たちの仕事は、完璧に整備して送り出すことなんだ。
もし途中で、故障して動かなくなったとなったら、俺たちの恥だからな」

強い口調で、それでいて、自身にも言い聞かせるように話しかけるのでした。

私は、思わず。

「はい。判りました」

そう言うと、黒沢班長は、笑いながら。

そんな畏まっていうことはないさ、他だな、ワシもそろそろ引退しようと思うからな。
若い、猫山に少しでも教えておいてやろうと思うんだ。
故障を発見するというのは、経験が一番大きいからな。

そう言って、エンジンの点検するこつを語り始めるのでした。

続く

 

 

 

 

2020年4月24日 (金)

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 5

本日も、続きを書かせていただきます。

特急つばめは、1分の臨時停車の後、再び加速していきます。
四分半後には「臨時特急さくら」が追いかけていますので、後続の列車にまで遅れを出すわけにはいきません。

私は、自らの意思で列車を止めたという事実を今一度思い返していました。
大変なことをしてしまった。自らの意思で、病人への救護措置とはいえ、特急列車を止めてしまったという悔悟の念が大きく頭をもたげました。
おそらく帰区してから助役・区長からの事情聴取があるだろう、厳しく叱責を受けること、もしかしたら、始末書を出さざるを得ないであろう、そんなことが頭によぎります。
しかし、自分は少女のためにという純粋な気持ちからの行動であり、例え叱責されても始末書を出して処分を受けたとしてもそれは甘んじて受け入れようと心に決めたのでした。
不思議と、そう覚悟を決めると今まで重くのしかかっていた不安が一気に解消していくのが感じられ、一気に疲れが出てきたように感じたのです。

その後は、しばし、専務車掌室の中で放心状態になってしまいましたのでした。
時計を見ると13:50、外を見るとちょうど熱田駅の駅名標がちらっと見えました。
 「良かった、列車は、遅れを取り戻したようだ。」

私は独り言を呟くと、名古屋到着の案内を始めるのでした。

名古屋には、14:00定時到着、ここで機関車はEF58からC62に交換されることになります。
EF58型機関車が切り離され、引き揚げ線に逃げると、C62のテンダが近づいてきます。
客車の5m程手前で一旦停車、誘導掛の緑の旗を頼りに機関士は徐々に機関車を客車に近づいてきます。

私は、車掌室の窓から機関車連結の様子を見守っていました。
連結作業は、機関士の技量が試される瞬間です。
出来るだけショックを与えずに連結するわけです、誘導掛の緑の旗が赤い旗に替わって機関車は静かに連結されました。
軽いショックが伝わってきたものの、あれ?という程度であり、安定した連結作業でした。
おそらく、前方では駅手による給水や炭庫の整理などが行われていることでしょう。

やがて5分の停車時間は過ぎて、発車ベルが大きな音でホーム全体に響き渡っています。

駅の売り子も。あと一つ、もう一つと、乗客に弁当を売っていきます、ベルが鳴り止み、駅長の発車合図と共に、汽笛一声、特急つばめ号は大阪に向かって動き出したのでした。

現在の新幹線などと比較すれば本当にゆっくりとした亀の歩みであり、弁当の売り子もここが腕の見せ所と小走りに走りながら弁当を売っていく姿も見えます。

ホームでは、見送り人の姿も幾人か見えました。

駅長との敬礼を交わした後は、後方の運転車掌に任務を任せ、私は案内放送に入るのでした。

お待たせいたしました、特急つばめ号、大阪行きです。

途中止まります駅は、岐阜、米原、京都、終点大阪の順でございます。

到着時刻は、岐阜14:30、米原15:22、京都16:21、終着大阪には、17:00ちょうどの到着を予定しています。

次は、岐阜、岐阜に停車いたします。

列車は、稲沢の操車場を見ながら走っていくのでした。何事もなく14:30には岐阜に到着、駅では助役が走り寄ってきました。

「蒲郡駅での少女の件ですが」という、

私はとっさに、どうだったのですかと聞き返しますと、
措置が早かったので、貴子ちゃんは快方に向かったとのこと。

急性の中毒症であり、措置がもう少し遅ければ命に関わっていたこと、4・5日も入院すれば退院できるであろと、蒲郡の駅から連絡があったと知らされました。

私は、「良かった。本当に良かった」

そう心から思いながら、岐阜駅を発車後に、以下のような案内放送をしたのでした。

「特急つばめ号にご乗車の皆様、先ほど停車の岐阜駅で、蒲郡駅で急病のため臨時停車した少女の件で連絡がありました。皆様にはご迷惑をおかけいたしましたが、あの臨時停車のおかげで、措置が早くできたことから、一命は取り留めたとのことでした。

改めて皆様には途中停車のお詫びを申し上げると共に、皆様のご協力のおかげで、一人に少女の命を救えたことを心より感謝いたします。ただいま、列車は定刻で運転しております。」

と放送を締めくくったのでした。

私の心には、いかなる処分を今後受けようとも、少女の命を救ったという思いを胸にして、どんな処分でも甘んじて受け入れようと改めて思ったのでした。

 

終わり

 

2020年4月 4日 (土)

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 4

ほぼ1ヶ月ぶりの更新になりますが、しばしお付き合いください。

私は、先ほどの親子に今一度会いに行くと、二人を特ロ【現在のグリーン車】に案内して、少しシートを倒して少しでも楽な姿勢になるようにするとともに、車掌室に戻り、マイクでお医者さんが乗り合わせていないか声をかけてみるのですが、あいにく乗っていませんでした。
そこで、途中駅での停車をと思い、前述の通り黒田運転車掌と打ち合わせの上、蒲郡に列車を止めようとしたわけです。

早速、運転車掌の黒田君が通報依頼書に臨時停車の旨を書いて、通過する西小坂井駅ホームの助役にマッチ箱程の大きさの通信筒に依頼書を入れて投げてくれたのでした。
私も通過監視しながら見ていますと、フルスピードで通過する駅から投げられた通信筒は列車が通過することで巻き起こる風に翻弄されながら、ホームをコロコロと転がっていくのが見えました。そして、列車から投げられた通信筒を拾いに近づく助役さんの姿は徐々に小さくなるものの見えていました。
現在であれば列車無線を使って列車指令と直接やりとりできますが、当時はそのような事は出来ませんので、西小坂井駅長の善処を信じるしかありませんでした。
もしかしたら・・・そんな一抹の不安が頭をよぎります。
私は再び車掌室にもどるとマイクを持って、この列車は蒲郡駅に臨時停車する旨を案内しました。
少女、貴子ちゃんは苦しそうに、堅く目を閉ざして苦しそうな呼吸を続けています。
私は、お母さんに
「先ほどマイクでも放送しましたが、蒲郡駅で臨時停車させて、病院に入れてあげますから」
と言うのですが、正直、一抹の不安は残っていました。
万一、蒲郡駅の場内信号機が進行出所定の速度で通過しようとしたら非常制動をかけてでも列車を停止させようと心に決めたのでした。

愛知御津、三河三谷と列車は瞬く間に通過し、次はいよいよ蒲郡でした。
私はいても立ってもいられなくなり、デッキに出てドアを開けたのでした。
列車は依然フルスピードで走行しており走りす続けています。
ああ、ダメかもしれない、やはり非常制動しか無いのか・・・そう思った矢先でした・
ググッとブレーキがかかったのでした、私は思わず体を乗り出します。
列車のスピードはどんどん速度を落とし、蒲郡駅のホームが眼前に迫ってきます。
駅員がホームにリヤカーをおいて待機してくれています。
列車は無事蒲郡駅に臨時停車したのです。

私は胸に熱いものがこみ上げてくるのを押さえながら。給仕にお願いして貴子ちゃんを抱っこして列車から降ろしてもらったのです。
この列車の後には4分半後に「臨時特急さくら」が迫っており、時間的にはかなり厳しいのですが、幸いなことに1分の臨時停車で蒲郡を再び出発、臨時停車の遅れを取り戻すべくぐんぐんとスピードを上げていきます。
と言っても、今の電車のような加速ではないので、ゆっくりとしたものですが・・・。
貴子ちゃんを乗せたリヤカーは駅員に引かれて移動していきました。
駅前には既に救急車が待機しているのでしょう。
列車に向かって何度も頭を下げてお礼を言うお母さんの姿が見えました。

続く、

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2020年3月 8日 (日)

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 3

しばらく更新できませんでしたが、早速お話を始めたいと思います。
浜松駅での停車時間は3分ほど、電化区間が浜松までの頃は、機関車の付け替えなどで長時間停車したものですが、最近はその時間も短くなり、弁当販売員にしてみれば,個々が腕の見せ所とばかりに張り切っているようです。
ホームでは発車ベルが鳴り響き、旅立ちの慌ただしさを盛り上げてくれます。
12:37 定時
ベルが鳴り止み、助役が旗を大きく振り上げているのが見えます。
汽笛一声、EF58の甲高い汽笛とともに軽いショックが乗務員室にも伝わり、特急つばめは大阪に向けて歩み出すのでした。
弁当販売員は、最後の1個をとばかりに小走りに走りながら弁当と釣り銭を渡しています。
浜松駅のハモニカ娘にも見送られながら、汽車は徐々に加速していくのでした。

さて、再び私は乗務員室からこれから先の停車駅の案内放送をしていくのでした。
次は、名古屋14:00到着、岐阜14:30、米原15:22、京都16:21。終着大阪には17:00調度の到着を予定しております。

いつも通りの放送を流し、しばし、専務車掌室で待機していますと、乗務員室のドアをノックする音がします。
誰だろうかと、開けてみますと、朝から体調が優れないとして、薬を渡し、先ほども浜松到着前に声をかけたお母さんが血相を変えて立っていました。

「どうされたのですか?」

  「子供の様子がおかしいのです」

「判りました、列車内にお医者さんがいないか尋ねてみることにします。」

私は早速にマイクに向かい放送用のスイッチを再び入れるのでした。

「皆様にお知らせいたします、4号車に急病のお客様がおられます。お医者様はおられませんでしょうか。」

放送はしたもののあいにくお医者さんは乗車していないようです。
そこで、私はどうするべきか、名古屋まであと1時間20分はかかります、そこで私はとっさに本来は停車駅ではない通過駅で臨時停車させようと決断しました。

不安そうに立っている母親に、
「座席に戻っておいてください、善処します」
と告げて、私は最後尾の展望室に歩を進めるのでした。

展望室の前方乗務員室に彼は座っていました。

「黒田運転車掌、車内で急病の乗客がいるので、列車を通過駅のどこかで停止させようと思う」

私は、岡崎駅にしようと思うがと言いかけて。蒲郡の方が近いし、病院等もありそうだと独り言を言いながら、新ためて、

「蒲郡駅で臨時停車させようと思う」

と黒田運転車掌に告げるのでした。

少し驚いた黒田車掌でしたが、

「了解しました。」

そう言ってくれたので、そのまま先ほどの母親の元に足を運ぶのでした。

座席に向かうとぐったりした少女に姿が見えます。
かなり体調は悪いようです、私は母親に、声をかけ

「蒲郡で臨時停車する手配を今から行います」
と手短に伝えるのでした。

母親は、
「ご無理申し上げますが、どうかよろしくお願いいたします。」

そう言って、深々と頭を下げるのでした。

さて、この続きは次回とさせていただきます。

2020年2月22日 (土)

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 2

皆様、久々に投稿させていただこうと思います。
9:00定刻に東京駅を出発した下り特急つばめ号は、有楽町の日劇を横に見ながらどんどん加速していきます。

私は、車内放送を済ませると、車内改札に向かうのでした。
私と同僚の専務車掌黒木君と手分けして、車内を回ることにしました。
車内は、用務客と思しき人が大半で、2等車では、国鉄パスを持った管理局の課長クラスや、会社の重役、時には国会議員も乗車しています。
それでも、特急つばめは2等車も3等車もほぼ満員の乗車率でした。
私は普通車から順次検札をしていたのですが、3等車に乗車していた親子連れに声をかけられました。
聞けば、子供の気分がよくないとのこと、そこで私は、列車内に常備の酔い止めの薬を手渡したのでした。

横浜9:27定刻出発下、特急つばめの次の停車駅は、沼津、しばし時間的にも余裕が生まれます。
やはり乗務中に乗客の安全確保は車掌の仕事ですので、特に気になると言えば、やはり東京から乗った親子連れでした。
体調が優れないと言っていた子供は、母親に寄り添って眠っているようでした。
私の姿に気づいた母親は軽く会釈を返してくれます。

私は、「お子様の様子は如何ですか。まもなく浜松ですが、浜松で下車することもできますよ」と、お伝えしたのです。

母親は、「問題はなさそうですのでこのまま大阪まで行けそうです」と申し出たので、私も安心して再び専務車掌室に戻るのでした。
そんな会話が交わされて、ふと窓外に目を見やるとホームに「しずおか」の駅名が目に入ってきます。

時計を見ると定時通過でした。
さすがに特急の運転士【甲組】たちのプロ意識は確かなものだと感心しながらも、専務車掌室で、しばし休息です。

静岡を通過すれば、あと30分ほどで浜松に到着です。私は到着10分ほど前から案内放送をおこなうため、マイクに向かいます。

長らくのご乗車お疲れ様でした。列車はあと10分で浜松に到着いたします。
浜松では3分停車いたします。
お忘れ物無きよう、後者のご準備お願いいたします。

1等車の乗客には年配のボーイがお客様の荷物をまとめて、準備している頃でしょう。
つばめガールも、下車するお客様に声をかけている頃かも知れません。

やがて列車は、12:34定刻に浜松駅に到着、駅ホームでは駅弁の売り子に混じって、ハモニカ娘がハモニカを籠に入れて立っています。
日本広しといえども、駅でハモニカを買えるのは浜松駅だけでしょう。

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東海道線の電化が浜松までだった頃は、機関車の付け替え時間の間にラジオ体操が流されており、さすがに乗務中はラジオ体操はしないものの、ホームを見ると何名かの乗客がホームに降りてラジオ体操をしている人を見かけたものでしたが、それも昔の物語になってしまいました。

そんな浜松駅も3分の停車で、再び大阪ヘ向けて歩を 進めるのでした。
ここまでは順調だったのですが、この後・・・件の母親からの申し出で事態は急変することとなります。

そう、東京出発直後に薬を渡した女子の体調が急変したのです。

ということで、ここから先は次回に書かせていただきます。

 

 

2020年2月 1日 (土)

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記

久々に、妄想小説などを書かせていただこうと思います。
今回のお話は、昭和31年1月10日に、「特急つばめ」車内で症状がひどくなった少女のために臨時停車手配を行った車掌氏の手記を参考に妄想力全開で書かせていただくものです。

東京から乗車した少女の容体が急変、車掌の機転で、蒲郡駅で臨時停車させるて病院に搬送することが出来たとして、後日新聞にも「愛の臨時停車」として美談が載ったというお話なのですが、当たり前のことをしただけなのに、これを美談として取り上げられることに多少の違和感を持ってしまったということで、当時の手記が書かれていました。
この記事はその内容をベースに創作したお話になります。

何回かに分けて書かせていただこうと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。
なお、あくまでも妄想物語なので、登場人物はすべて仮名とさせていただきます。m(_ _)m

初めまして、私は大阪車掌区の勤務する中村というものです。
私は、15歳で大阪鉄道管理局に採用され、大阪城東線の京橋駅を振り出しに、車掌試験を受験、特急つばめが運転を開始してから3年後の昭和28年から、専務車掌として乗務することになりました。
当時の列車には、専務車掌である私の他に、後方の監視を担当業務とする運転車掌や、つばめガールに代表される列車給仕など、多くのスタッフも乗務していました。

さて、当日の話は後ほどお話しさせていただくとして、特急つばめのお話を最初にさせていただこうと思います。

特急「つばめ」は戦前は超特急として、東京から東海道本線の終点である神戸まで運転されていました。
当時は特急「燕」と漢字で書かれており、客車並びに列車はここからもう少し先の明石に機関区並びに客車区がありましたので、そこまで回送されることとなっていました。
戦後は、外国への船客も減ったことから東京~大阪間に運転区間が短縮されましたが、列車の受け持ちは引き続き、大阪鉄道管理局が受け持つこととなり、国鉄の伝統列車で有る「つばめ」号を引き続き大阪で、それも大阪車掌区が受け持つことは、とても誇りに思えたもので有り、私以外の多くの車掌も同様に誇りを持って日本一の列車を運転しているんだという自負はありました。
私たちは最高の車両で、最高のサービスを提供することを合い言葉に行動していました。

さて、この日も私は前日の「つばめ」に乗務して上京、乗務員宿泊所で休息し、翌日の「つばめ」で帰阪する行路となっていました。
当時は特急と言える列車は、この「つばめ」と「さくら」、それと山陽本線の「かもめ」だけで有り、特急列車自体が特別な列車で有りますから、先ほども書きましたが、客車を受け持つ宮原客車区は言うに及ばず、私たちが所属する大阪車掌区、そして宮原機関区でも特急乗車組は憧れを持って見られていたものでした。

当日は、7:00に宿泊所を出発、7:30には制服に着替えて点呼を受けることとなっていました。
東京車掌区での点呼はいつもの事ながら緊張します。
言ってみれば親戚の家に来たようなものですから。
点呼を終えて品川客車区でつばめに乗り込み、運転車掌の黒田君も乗務してくる。
その後、列車給仕のつばめガールも乗務、簡単に打ち合わせを行い。移動を待つことに、時計が8:20分を示す頃、列車は静かに動き出し、東京駅へ、展望車の先頭に機関車が付くのはこの区間だけに見られる不思議な光景と言えましょう。

当時は、大阪では塚本からのデルタ線を使って方向転換していましたが、東京でもで品川駅から大崎駅を使ってのデルタ線で客車全体の方向転換が行われていました。

そして、当時は始発駅で30分程度停車するのは当たり前で有り、9:00出発の「つばめ」号は8:33には、東京駅到着、すぐに機関車は先頭車に回すため切り離されて、横の機回し線と呼ばれる線路をすり抜けて先頭の荷物車に連結、既に荷物車では手荷物の搬入なども行われており、ホームでは別れの挨拶が行われているのでした。

客車は先頭大阪方から。スハニ35+スハ44+スハ44+スハ44+スロ60+スロ60+マシ35+スロ60+スロ60+スロ60+マイテ39という編成で、定員は3等車が定員288名【1両あたりの定員は80名】2等車は定員220名【1両あたり44人】であり、いかに当時の3等車【普通車】が詰め込みであったか判ります。【ちなみに、3等寝台車は定員60人、その後増備された車両は54人】とこれまた、詰め込み主義的な乗り物で、現在の水準では考えられないほど窮屈な代物でした。

さて、9:00発車ベルが東京駅ホームに鳴り響き、運転主任の発車合図を待って、EF58からの甲高い汽笛がホームに響き渡ると徐々に徐々に汽車はスピードを上げて動き出すのでした。
私は、8号車の2等車から顔を出してホームの監視を行います。
後方では、同じく運転車掌の黒田君が乗ってくれています。黒田君は大阪車掌区ではありませんが、機転の利く好青年ですので、やがては専務車掌として頑張ってくれることを密かに期待しているのです。
ちらっと、後ろを見てみると、真剣なまなざしで後方からホームを見つめています。
さて、列車がホームを離れると、案内放送も私の重要な仕事ですので、車内の案内と停車駅の到着時刻などを放送していくのでした。

その後、車内改札を行うのですが、このときは未だ、これから4時間程後におこる騒動など夢にも思わないのでした。

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2019年4月 1日 (月)

駅員、砂川次郎の独り言 連載休止のお知らせ

すみません、気がつけば2か月以上放置状態になってしまいました。

一度仕切り直す方が良さそうなのでいったん切らせていただきます。

砂川次郎の独り言ですが、作者都合により連載休止となりました。

お待ちいただいた皆様申し訳ございませんでした。

次回新たな構想でスタートさせていただきます。

 

2019年1月21日 (月)

駅員、砂川次郎の独り言 第四話

すみません、1週間ぶりの更新です。

 

> そうして、3月1日、春の卒業式、各々が一抹の寂しさと三年間の高校生活の思いを抱きながら卒業していくのでした。

 

皆様、お久しぶりでございます、砂川次郎でございます。
いい加減に、国鉄時代の話をしませんと、投稿を中止すると言われましたので、早速始めたいと思います。【本当はそんなこと言われていないのですけれどね、無言の圧力が怖くて・・・(^_^;)

 

さて、高校生活を終え1週間ほどした頃でしょうか。
辞令が郵送され、天王寺駅での勤務が決まりました。
初めて親元を離れて暮らすことには一抹の不安もありましたが、大都市大阪に行けることの方がうれしかったのでした。
試験では、ほとんど見物できませんでしたけれど、天王寺の駅前には路面電車が走っていますし、バスも地元のくすんだ色のバスと比べますと、大阪で走るバスはあか抜けしていました。
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さて、引っ越しの荷物と言っても、布団くらいのものであり、母親は近くの布団屋さんにお願いして。私が住む寮に、送ってくれることになりました。
今のように、スマホであるとか、パソコンと言った類いもなく風呂敷包みを背負い、少し大きめの旅行かばんに生活用品を入れてしまえば終わってしまう程度の少ない荷物でした。

 

正式な勤務は4月1日からではなく、3月の20日からと言うことでしたので、卒業後はもうバタバタで、友達にも十分な挨拶もできないままに日は過ぎていくのでした。

 

3月19日、両親に見送られながら御坊臨港鉄道に乗車したのでした、その日の車掌は、私が試験を受けに行った際に乗務していた車掌でした。

 

「坊主、大きな荷物だけど就職先が決まったんか?」

 

ぶっきらぼうに質問してきます。

 

私は、

 

「はい、国鉄に就職が決まって、明日から勤務なのです」

 

といいますと、先ほどの車掌は私の顔をしげしげと見つめながら、

 

「お前、確か国鉄の試験を受けに行くと言っていました・・・」

 

と言いかけたとき、私が遮るように、

 

 「そうです、あのときの高校生です」

 

そんな会話をしていますと、気がつけば列車の発車時刻を過ぎていたのでしょう。
運転士が怒鳴ります。

 

 「いいかげんにしないか、列車発車させろ」

 

怒った口調で運転士が叫びます。

 

 「す、スマネェ」

 

そう言ってドアスイッチを操作してドアを閉めると列車はいきなりエンジン音を上げて少しずつ進み出すのでした。

 

私の母親は少し涙を浮かべながら手を振っています。
父親は、黙って立っているだけでしたが、喜んでくれているのは何となく分かりました。

 

さて、そうして私は御坊駅に降り立つと、臨港鉄道の車掌に一礼すると共に、再び国鉄の改札に向かって、切符を購入するため、窓口に向かうのでした。

 

管理局から送られてきた証明書を見せれば無賃乗車証を発行してくれる手はずになっていましたので。

 

駅員に恐る恐る出すと、出札係は面倒くさそうにしながら、天王寺までの乗車証を発行してくれました。
いよいよ明日から・・・、ああ、又約束の紙面が終わってしまいました。
本当に申し訳ありません。
次回こそ、新米駅員砂川次郎の物語に入れると思います。

2019年1月12日 (土)

駅員、砂川次郎の独り言 第三話

> 結局、次郎が学校の先生から合格通知を聞くのは、おじさんが家にやって来てから三日後に学校に届いた速達で知ったのでした。

「次郎、先生が呼んでいるぞ。」
幼なじみで、同級生の良夫が声をかけます。

 「え?先生が?」

多分、国鉄の試験のことだろうと思いましたが、間髪入れず良夫が、

「次郎、なんか悪いことしたんだろう。」
いたずらっぽい目で良夫が笑います。

 「違うよ・・・。」
といいながら、恐る恐る職員室に向かうのでした。
良夫も何となく気になって職員室の前まで行くのでした。

職員室の前で、

「入ります」

そう言って職員室の引き戸を開けると、丁度担任の先生が教頭先生と話しているところでした。

次郎の顔を認めると、

  「おお、佐藤、おめでとう。」

担任の大井先生と教頭先生が一斉に声をかけます。

職員室の前で待っていた良夫も、(・。・)状態

担任の大井先生が、次郎に告げます。

「先程、速達郵便が届いてな、開けてみたら佐藤君が日本国有鉄道の試験に合格したからと言う内容だったんだ。

次郎は、既に親戚のおじさんから聞いて知っているとも言えず、黙ったままでいると。
先生が、

  「佐藤は嬉しくないのか?」
怪訝そうな顔でのぞき込みます。

「ち。違います。嬉しいです。」

慌てて否定する、次郎でした。
後ろで見ていた良夫も嬉しそうです。

良夫は、家業の町工場を継ぐことになっているのですが、やはり友達の就職は少し複雑な思いもある反面嬉しく感じるのでした。

「次郎、良かったなぁ。」

担任の大井先生からは、後日、配属の希望調書などが自宅に送られるそうだと言った後、また、教頭先生と話を始めるのでした。

そのまま。ボッと立っていると、大井先生が

 「佐藤、もうすぐ授業だから教室に戻れよ」

次郎と良夫は苦笑しながら。

「失礼します」

そう言って、職員室を出るのでした。

良夫が、少し膨れて、

「先生も話が終わったら帰って良いぞとすぐ言ってくれれば良いのになぁ、ずるいよなぁ。」

「そうだな、。。。」
次郎も苦笑しながら、教室に戻るのでした。

次郎、お前国鉄に行くんか?

情報屋と言われる。啓太は次郎に話しかけます。

「え?なんで知っているの。」

次郎はビックリしていると、さっき職員室の近くまで来たら、「おめでとう」という声が聞こえて、外に良夫の姿見えたんでね。

中々勘の良い、啓太です。
流石に情報を集めるのはうまいモノです。

そんなわけで、教室でも次郎が国鉄に合格したことは知れ渡ってしまうのでした。

当時は大学に行くのは本当にお坊ちゃんと呼べるような人だけで、殆どの学生は高校を卒業すると就職するのでした。
実際には、中学を卒業してそのまま働きに行く子もいるので、当時は、高校まで行ければ親としての責任は果たしたと言われたものです。

次郎のクラスでも、大学に進学したのは、町医者の子供と、県会議員のちょっとキザな、二人だけでした。
3クラス120人ですが、大学に進学したのは、10人もいなかったのです。

そうして、3月1日、春の卒業式、各々が一抹の寂しさと三年間の高校生活の思いを抱きながら卒業していくのでした。
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ああ、また紙数が尽きてしまいました。
blackcatから小言を言われそうですね。
次回こそ、駅でのお話をさせていただこうと思います。

実は、最初に勤務したのは、大きな駅でした。
最初から小さな駅で仕事をすると、仕事を覚える機会がないだろうということで、とある大きな駅で働くことになったのですが、その辺はまた次回とさせてくださいね。

2018年12月31日 (月)

駅員、砂川次郎の独り言 第二話

気がつけば、10日も開けてしまいました。
本日もしばしお付き合いくださいませ。

砂川次郎のお話を続けさせていただこうと思います。

> 123列車、和歌山市行きが発車するのと歩調を合わせるかのように、御坊臨港鉄道の気動車も歩を進めていくのでした。

さて、blackcatからの依頼は、私の鉄道員時代のお話だったのですが、思わず受験する前の話になってしまいました。blackcat曰く、面白いからそのまま続けてと言うことでしたので、お言葉に甘えて、もう少し試験のお話をさせていただこうと思います。

試験ですが、試験は一次試験が筆記試験、その後面接や身体検査があったと思います。
なんせ、もう40年以上前の話なのであまり良く覚えていないのですが、私の高校時代の同級生は、二次試験は体力試験がメインで腕立て伏せとかやらされたと言っていましたが、そうしたことは無くクレペリン検査が行われたような気がします。

試験の結果は・・・まぁ、合格しなかったらここでのお話が出来ないわけですから、当然合格したのですが、合格の知らせは学校から教えて貰うのですが、それよりも3日ほど早く、おじさんから伝えられたのでした。

私のおじさんは、当時天鉄局で施設部建築課と言うところに勤務しており、駅及び関連する施設の設計や維持管理を主な仕事としていたようです。
元々は保線区の中に建築部門があったそうで、おじさんも国鉄に入ったまなしの頃は、脚絆を足に巻いて鶴嘴を持って一緒に線路を直しに行ったと言っていました。
当時は、職員の他に雇員・庸員と言われる、非正規の日雇いの職員もいたそうです。
職員はきちんと制服が支給されていますが、庸員と言った人たちには制服の支給は無く、年配の人は職員のお古の制服を貰って着ている人もいましたが、多くの人は鉄道省時代の古い半纏を纏い、ねじり鉢巻きと言った人もいました。
現在と違って、非正規と呼ばれる人たちと正規社員の差は現在よりも酷いものでした。
まぁ、これはおじさんの受け売りなんですけどね。

話が思わず、違うところに行ってしまいました。苦笑

おじさんは、天鉄局で働いており、当然のことながら私が試験を受けることは知っていましたので、人事の採用担当に声をかけていたのでした。
うちの甥っ子が受験するから頼むわ・・・、そんな調子でしたから。
一次試験の成績から二次試験の様子まで逐一おじさんに知られることになるのでした。

だから、一次試験の時も二次試験の合格結果も、学校で聞くよりも早く、おじさんが伝えてくれるのでした。
学校の先生に申し訳ないので、知っていても知らない振りをしていましたね。苦笑

ということで、二次試験が終わってしばらくした頃、おじさんが自宅にやって来たのでした。
夜9時頃だったでしょうか。
玄関のブザーが鳴りました。

母親は、「誰でしょうね、こんな時間に」

そう言いながら玄関の鍵を開けると、おじさんが立っていました。

「あら、兄ちゃんどうしたの?」

  「次郎、いるか?」

「次郎なら帰っているけど、・・・」
「次郎、次郎、おじさんが見えているわよ」

そう呼びかける母親、その声を聞いて。
玄関まで足を運んだのでした、そこにはいつになく厳しい顔の和雄おじさんがいました。

「おじさん、こんばんは」

しかし、おじさんはニコリともせずに厳しい顔をしています。
私は段々不安になってきて、

「お、おじさん・・・」そこまで言って言葉が詰まってしまいました。

しばしの沈黙の後、和雄おじさんが、低い声で

 「試験の結果なんだが」
こう言ってしばらく沈黙してしまいました。
私は、まさか、不合格? だったのか・・・そんな思いが駆け巡ります。

そんな雰囲気を察したのか、おじさんは「にやり」と笑って、

「次郎、合格だ。かなり成績良かったらしいぞ。おじさんも鼻が高いわ」

そう言って高笑いするのです。
実は、管理局の人事採用担当から直接聞いて、仕事を少し早めに切り上げて、次郎の家まで来たのでした。

和雄叔父は、堺市に住んでいました、おじ曰く、急行南紀で来たかったのですが、会議が長引き、乗れなかったそうで、結果的に17:20天王寺発の普通列車に乗ってきたそうです。

和雄叔父さんの腹芸に騙された次郎でしたが、母親もそれを聞いて大喜び。

お兄ちゃん、次郎を騙したら可哀想じゃない・・・と言いながらも嬉しそうです。
父親も玄関が騒がしいので、晩酌を途中で止めて玄関に、

「おお、和雄さんじゃないか、今日はまたどうして?」

そして、母親と次郎の顔を交互にみて、

「そうですか、次郎が合格したのですか?」

 「ええ、次郎君、全合格者100人のうち10番以内の成績で合格したらしいですよ」
 「人事部の同僚が教えてくれましてね、それで取りあえず、取るもの取らず飛んできたというわけです」

「そうか、次郎良かったなぁ」
「和雄さん、まぁ、取りあえず上がってくださいな、玄関での立ち話もなんだし・・・」

 「ありがとうございます」

そんな感じで、父親と和雄おじさんは、酒を飲みながら、国鉄の話を聞かせてくれるのでした。
日頃は酒を飲まない、和雄叔父さんですが、あまりお酒を飲んでいることを見たことはないのですが、今日は父親と嬉しそうに呑んでいます。
Bansyaku
23:00頃だったでしょうか、そろそろ寝ようと思っていたら、居間の方から父親の声がします。

「次郎、次郎、おじさんが話があるそうだ」
そう言われて部屋に入ると、おじさんもすっかり出来上がって、へべれけ状態でした。

部屋に入るなり、

 「次郎、国鉄はいいぞ、まず汽車がただで乗れる、それに休みもあるからなぁ、ワシのように局を受験しろ」

もうすっかり出来上がったおじさんは、上機嫌
父親も一緒になって、
「次郎、和雄おじさんと一緒に仕事させて貰え」
と言った調子で大騒ぎです。

母親が、そんな様子を見かねて
「お父さん、次郎は明日も学校ですから、そろそろお開きにしなさいな」

そう言われて、ようやくお開きになったのでした。

結局、次郎が学校の先生から合格通知を聞くのは、おじさんが家にやって来てから三日後に学校に届いた速達で知ったのでした。

また、blackcatに叱られそうですが、またまた肝心の鉄道員の話になる前に紙数が尽きてしまいましたので。
今度こそ、駅員時代のお話をさせていただこうと思います。m(_ _)m

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