鉄道

小説

2019年1月21日 (月)

駅員、砂川次郎の独り言 第四話

すみません、1週間ぶりの更新です。

 

> そうして、3月1日、春の卒業式、各々が一抹の寂しさと三年間の高校生活の思いを抱きながら卒業していくのでした。

 

皆様、お久しぶりでございます、砂川次郎でございます。
いい加減に、国鉄時代の話をしませんと、投稿を中止すると言われましたので、早速始めたいと思います。【本当はそんなこと言われていないのですけれどね、無言の圧力が怖くて・・・(^_^;)

 

さて、高校生活を終え1週間ほどした頃でしょうか。
辞令が郵送され、天王寺駅での勤務が決まりました。
初めて親元を離れて暮らすことには一抹の不安もありましたが、大都市大阪に行けることの方がうれしかったのでした。
試験では、ほとんど見物できませんでしたけれど、天王寺の駅前には路面電車が走っていますし、バスも地元のくすんだ色のバスと比べますと、大阪で走るバスはあか抜けしていました。
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さて、引っ越しの荷物と言っても、布団くらいのものであり、母親は近くの布団屋さんにお願いして。私が住む寮に、送ってくれることになりました。
今のように、スマホであるとか、パソコンと言った類いもなく風呂敷包みを背負い、少し大きめの旅行かばんに生活用品を入れてしまえば終わってしまう程度の少ない荷物でした。

 

正式な勤務は4月1日からではなく、3月の20日からと言うことでしたので、卒業後はもうバタバタで、友達にも十分な挨拶もできないままに日は過ぎていくのでした。

 

3月19日、両親に見送られながら御坊臨港鉄道に乗車したのでした、その日の車掌は、私が試験を受けに行った際に乗務していた車掌でした。

 

「坊主、大きな荷物だけど就職先が決まったんか?」

 

ぶっきらぼうに質問してきます。

 

私は、

 

「はい、国鉄に就職が決まって、明日から勤務なのです」

 

といいますと、先ほどの車掌は私の顔をしげしげと見つめながら、

 

「お前、確か国鉄の試験を受けに行くと言っていました・・・」

 

と言いかけたとき、私が遮るように、

 

 「そうです、あのときの高校生です」

 

そんな会話をしていますと、気がつけば列車の発車時刻を過ぎていたのでしょう。
運転士が怒鳴ります。

 

 「いいかげんにしないか、列車発車させろ」

 

怒った口調で運転士が叫びます。

 

 「す、スマネェ」

 

そう言ってドアスイッチを操作してドアを閉めると列車はいきなりエンジン音を上げて少しずつ進み出すのでした。

 

私の母親は少し涙を浮かべながら手を振っています。
父親は、黙って立っているだけでしたが、喜んでくれているのは何となく分かりました。

 

さて、そうして私は御坊駅に降り立つと、臨港鉄道の車掌に一礼すると共に、再び国鉄の改札に向かって、切符を購入するため、窓口に向かうのでした。

 

管理局から送られてきた証明書を見せれば無賃乗車証を発行してくれる手はずになっていましたので。

 

駅員に恐る恐る出すと、出札係は面倒くさそうにしながら、天王寺までの乗車証を発行してくれました。
いよいよ明日から・・・、ああ、又約束の紙面が終わってしまいました。
本当に申し訳ありません。
次回こそ、新米駅員砂川次郎の物語に入れると思います。

2019年1月12日 (土)

駅員、砂川次郎の独り言 第三話

> 結局、次郎が学校の先生から合格通知を聞くのは、おじさんが家にやって来てから三日後に学校に届いた速達で知ったのでした。

「次郎、先生が呼んでいるぞ。」
幼なじみで、同級生の良夫が声をかけます。

 「え?先生が?」

多分、国鉄の試験のことだろうと思いましたが、間髪入れず良夫が、

「次郎、なんか悪いことしたんだろう。」
いたずらっぽい目で良夫が笑います。

 「違うよ・・・。」
といいながら、恐る恐る職員室に向かうのでした。
良夫も何となく気になって職員室の前まで行くのでした。

職員室の前で、

「入ります」

そう言って職員室の引き戸を開けると、丁度担任の先生が教頭先生と話しているところでした。

次郎の顔を認めると、

  「おお、佐藤、おめでとう。」

担任の大井先生と教頭先生が一斉に声をかけます。

職員室の前で待っていた良夫も、(・。・)状態

担任の大井先生が、次郎に告げます。

「先程、速達郵便が届いてな、開けてみたら佐藤君が日本国有鉄道の試験に合格したからと言う内容だったんだ。

次郎は、既に親戚のおじさんから聞いて知っているとも言えず、黙ったままでいると。
先生が、

  「佐藤は嬉しくないのか?」
怪訝そうな顔でのぞき込みます。

「ち。違います。嬉しいです。」

慌てて否定する、次郎でした。
後ろで見ていた良夫も嬉しそうです。

良夫は、家業の町工場を継ぐことになっているのですが、やはり友達の就職は少し複雑な思いもある反面嬉しく感じるのでした。

「次郎、良かったなぁ。」

担任の大井先生からは、後日、配属の希望調書などが自宅に送られるそうだと言った後、また、教頭先生と話を始めるのでした。

そのまま。ボッと立っていると、大井先生が

 「佐藤、もうすぐ授業だから教室に戻れよ」

次郎と良夫は苦笑しながら。

「失礼します」

そう言って、職員室を出るのでした。

良夫が、少し膨れて、

「先生も話が終わったら帰って良いぞとすぐ言ってくれれば良いのになぁ、ずるいよなぁ。」

「そうだな、。。。」
次郎も苦笑しながら、教室に戻るのでした。

次郎、お前国鉄に行くんか?

情報屋と言われる。啓太は次郎に話しかけます。

「え?なんで知っているの。」

次郎はビックリしていると、さっき職員室の近くまで来たら、「おめでとう」という声が聞こえて、外に良夫の姿見えたんでね。

中々勘の良い、啓太です。
流石に情報を集めるのはうまいモノです。

そんなわけで、教室でも次郎が国鉄に合格したことは知れ渡ってしまうのでした。

当時は大学に行くのは本当にお坊ちゃんと呼べるような人だけで、殆どの学生は高校を卒業すると就職するのでした。
実際には、中学を卒業してそのまま働きに行く子もいるので、当時は、高校まで行ければ親としての責任は果たしたと言われたものです。

次郎のクラスでも、大学に進学したのは、町医者の子供と、県会議員のちょっとキザな、二人だけでした。
3クラス120人ですが、大学に進学したのは、10人もいなかったのです。

そうして、3月1日、春の卒業式、各々が一抹の寂しさと三年間の高校生活の思いを抱きながら卒業していくのでした。
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ああ、また紙数が尽きてしまいました。
blackcatから小言を言われそうですね。
次回こそ、駅でのお話をさせていただこうと思います。

実は、最初に勤務したのは、大きな駅でした。
最初から小さな駅で仕事をすると、仕事を覚える機会がないだろうということで、とある大きな駅で働くことになったのですが、その辺はまた次回とさせてくださいね。

2018年12月31日 (月)

駅員、砂川次郎の独り言 第二話

気がつけば、10日も開けてしまいました。
本日もしばしお付き合いくださいませ。

砂川次郎のお話を続けさせていただこうと思います。

> 123列車、和歌山市行きが発車するのと歩調を合わせるかのように、御坊臨港鉄道の気動車も歩を進めていくのでした。

さて、blackcatからの依頼は、私の鉄道員時代のお話だったのですが、思わず受験する前の話になってしまいました。blackcat曰く、面白いからそのまま続けてと言うことでしたので、お言葉に甘えて、もう少し試験のお話をさせていただこうと思います。

試験ですが、試験は一次試験が筆記試験、その後面接や身体検査があったと思います。
なんせ、もう40年以上前の話なのであまり良く覚えていないのですが、私の高校時代の同級生は、二次試験は体力試験がメインで腕立て伏せとかやらされたと言っていましたが、そうしたことは無くクレペリン検査が行われたような気がします。

試験の結果は・・・まぁ、合格しなかったらここでのお話が出来ないわけですから、当然合格したのですが、合格の知らせは学校から教えて貰うのですが、それよりも3日ほど早く、おじさんから伝えられたのでした。

私のおじさんは、当時天鉄局で施設部建築課と言うところに勤務しており、駅及び関連する施設の設計や維持管理を主な仕事としていたようです。
元々は保線区の中に建築部門があったそうで、おじさんも国鉄に入ったまなしの頃は、脚絆を足に巻いて鶴嘴を持って一緒に線路を直しに行ったと言っていました。
当時は、職員の他に雇員・庸員と言われる、非正規の日雇いの職員もいたそうです。
職員はきちんと制服が支給されていますが、庸員と言った人たちには制服の支給は無く、年配の人は職員のお古の制服を貰って着ている人もいましたが、多くの人は鉄道省時代の古い半纏を纏い、ねじり鉢巻きと言った人もいました。
現在と違って、非正規と呼ばれる人たちと正規社員の差は現在よりも酷いものでした。
まぁ、これはおじさんの受け売りなんですけどね。

話が思わず、違うところに行ってしまいました。苦笑

おじさんは、天鉄局で働いており、当然のことながら私が試験を受けることは知っていましたので、人事の採用担当に声をかけていたのでした。
うちの甥っ子が受験するから頼むわ・・・、そんな調子でしたから。
一次試験の成績から二次試験の様子まで逐一おじさんに知られることになるのでした。

だから、一次試験の時も二次試験の合格結果も、学校で聞くよりも早く、おじさんが伝えてくれるのでした。
学校の先生に申し訳ないので、知っていても知らない振りをしていましたね。苦笑

ということで、二次試験が終わってしばらくした頃、おじさんが自宅にやって来たのでした。
夜9時頃だったでしょうか。
玄関のブザーが鳴りました。

母親は、「誰でしょうね、こんな時間に」

そう言いながら玄関の鍵を開けると、おじさんが立っていました。

「あら、兄ちゃんどうしたの?」

  「次郎、いるか?」

「次郎なら帰っているけど、・・・」
「次郎、次郎、おじさんが見えているわよ」

そう呼びかける母親、その声を聞いて。
玄関まで足を運んだのでした、そこにはいつになく厳しい顔の和雄おじさんがいました。

「おじさん、こんばんは」

しかし、おじさんはニコリともせずに厳しい顔をしています。
私は段々不安になってきて、

「お、おじさん・・・」そこまで言って言葉が詰まってしまいました。

しばしの沈黙の後、和雄おじさんが、低い声で

 「試験の結果なんだが」
こう言ってしばらく沈黙してしまいました。
私は、まさか、不合格? だったのか・・・そんな思いが駆け巡ります。

そんな雰囲気を察したのか、おじさんは「にやり」と笑って、

「次郎、合格だ。かなり成績良かったらしいぞ。おじさんも鼻が高いわ」

そう言って高笑いするのです。
実は、管理局の人事採用担当から直接聞いて、仕事を少し早めに切り上げて、次郎の家まで来たのでした。

和雄叔父は、堺市に住んでいました、おじ曰く、急行南紀で来たかったのですが、会議が長引き、乗れなかったそうで、結果的に17:20天王寺発の普通列車に乗ってきたそうです。

和雄叔父さんの腹芸に騙された次郎でしたが、母親もそれを聞いて大喜び。

お兄ちゃん、次郎を騙したら可哀想じゃない・・・と言いながらも嬉しそうです。
父親も玄関が騒がしいので、晩酌を途中で止めて玄関に、

「おお、和雄さんじゃないか、今日はまたどうして?」

そして、母親と次郎の顔を交互にみて、

「そうですか、次郎が合格したのですか?」

 「ええ、次郎君、全合格者100人のうち10番以内の成績で合格したらしいですよ」
 「人事部の同僚が教えてくれましてね、それで取りあえず、取るもの取らず飛んできたというわけです」

「そうか、次郎良かったなぁ」
「和雄さん、まぁ、取りあえず上がってくださいな、玄関での立ち話もなんだし・・・」

 「ありがとうございます」

そんな感じで、父親と和雄おじさんは、酒を飲みながら、国鉄の話を聞かせてくれるのでした。
日頃は酒を飲まない、和雄叔父さんですが、あまりお酒を飲んでいることを見たことはないのですが、今日は父親と嬉しそうに呑んでいます。
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23:00頃だったでしょうか、そろそろ寝ようと思っていたら、居間の方から父親の声がします。

「次郎、次郎、おじさんが話があるそうだ」
そう言われて部屋に入ると、おじさんもすっかり出来上がって、へべれけ状態でした。

部屋に入るなり、

 「次郎、国鉄はいいぞ、まず汽車がただで乗れる、それに休みもあるからなぁ、ワシのように局を受験しろ」

もうすっかり出来上がったおじさんは、上機嫌
父親も一緒になって、
「次郎、和雄おじさんと一緒に仕事させて貰え」
と言った調子で大騒ぎです。

母親が、そんな様子を見かねて
「お父さん、次郎は明日も学校ですから、そろそろお開きにしなさいな」

そう言われて、ようやくお開きになったのでした。

結局、次郎が学校の先生から合格通知を聞くのは、おじさんが家にやって来てから三日後に学校に届いた速達で知ったのでした。

また、blackcatに叱られそうですが、またまた肝心の鉄道員の話になる前に紙数が尽きてしまいましたので。
今度こそ、駅員時代のお話をさせていただこうと思います。m(_ _)m

2018年12月20日 (木)

駅員、砂川次郎の独り言 第一話

皆様こんばんは、初めまして。
砂川次郎と言います、blackcatこと黒猫氏から、定年の記念にあなたの思いで話を書いてくれと言われたのですが、元より学も無く、文才も無いのでとお断りしていたのですが、若い頃のお話で良いからと言われ、さほど面白いお話も無いですよと申し上げたのですが、若い鉄道ファンには、私が駅員になった頃のお話をしたら、是非そのお話をしてくれと言われました。
そんな、駅で切符売った話とか、行き先板【サボ】を付け替える話とか面白いんですかと申し上げたのですが、そんな話ほど今の人は、知らないからと上手くおだてられて、書くことになりました。
いかんせん、もう何年も前のことで有り、思い出しながらなので間違いもあるかもしれませんが、その辺はまぁ、年寄りの思いで話として聞き流してやってくださいませ。

ということで、早速当時のお話などをさせていただこうと思いますが、私は昭和40年に地元の高校を卒業後、おじさんを頼って天王寺鉄道管理局の採用試験を受けることにしました。
当時私は、御坊市というところに住んでおり、天王寺まで行くのは一苦労でした。
今でこそ、特急も走っていますが、当時の特急は御坊など停車しませんでしたが、準急列車か一部の急行列車が停車していました。

試験は天王寺鉄道管理局で行われるとのことで、朝かなり早い汽車に乗ったことを覚えています。
日高川から乗った、御坊臨港鉄道の小さな気動車には私と運転手と車掌、後発車間際に二人ほど乗ってきただけでした。
早朝に、高校生が乗っているものですから、列車の発車前に車掌が珍しがって、
「坊主これからどこへ行くんだ?」
と話しかけるのでした。

私は、少し照れながら、「おじさんの伝手で、国鉄の試験を受けに行くんだ」と言いました。
車掌は、たまげたような顔をして、
「そっか、国鉄にいくんか?」

「いや、まだ決まったわけじゃ無くてこれから試験受けるんだけど・・・」
途中で話を遮るように、

「いや、親戚の伝手なら合格したようなもんだなぁ。儂も国鉄に行きたかったけど試験に落ちてなぁ・・・。まぁ、ガンバレや」

そう言っていると、運転士が、「そろそろ時間だから出発するぞ」と叫びます。

車掌も慌てて、「スマンスマン、発車オーライ」

しばらくすると、最初の停車駅西御坊に到着、ここでも二名ほど乗ってきてすぐ発車、その後途中の駅での乗降も無く、程なく御坊駅に到着、車掌が切符を回収せず、そのまま駅員に渡すようにと言います。

駅で切符を渡し、改めて天王寺までの切符を購入します。
試験は10:00からのため、東和歌山駅に7:56に到着する列車に乗れば何とか間に合いそうです。
早速、駅で切符を買うのですが、そこでも駅員に高校生がこんな朝早くから天王寺まで行くのか? と言う怪訝な顔で聞きます。
受験票を見せて、国鉄の試験を受けるというと、今まで仁王のようにいかめしい顔だった駅員が旧に柔和な顔になり
「そうか、坊主、国鉄受けるんか、国鉄受かったら駅員が良いぞ、間違っても機関車乗りになるなよ・・・」
もう受験する前から、駅に勤務しろと勧められます。

私としては、困惑してしまって黙っていると、その駅員が一言

「ガンバレよ」

そう言って送り出してくれたのでした。
お釣りを受け取り、改札を出ると、助役がホームに立っています。
そうしてしばらくすると、蒸気機関車が警笛を鳴らしながら駅に侵入してくるのでした。

シュッシュ・・・ドラフトの音を響かせながら。機関車は助役の前を通過していきます。
助役は機関士に向けて敬礼し、機関士は前方を注視したまま停止目標でピタリと停車させます。
駅員が、マイクで、「御坊、御坊、御坊でございます。御坊臨港鉄道はお乗り換えでございます」と伝えています。
旅慣れた人や地元の人は、さっさと御坊臨港鉄道のホームに向かうものの、旅慣れない人は右往左往、駅員に聞いて小走りに臨港線ホームに走り寄ります。

123列車、和歌山市行きが発車するのと歩調を合わせるかのように、御坊臨港鉄道の気動車も歩を進めていくのでした。

おっと、肝心の私の駅員になった頃のお話からと思ったのですが、試験を受ける前からのお話になってしまいました。
blackcatからの依頼された紙数に達してしまいましたので、また改めてその後のお話はさせていただこうと思います。

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2018年5月14日 (月)

気動車区、向日京二君の思い出話 最終話

>不満をあらわにする幸子ちゃんでしたが、実は京二君、お母さんと幸子ちゃんをびっくりさせようと、家に一足先に帰っていたのでした。

申し訳ございません。2ヶ月も空けてしまいました。
このまま終わらせるものも嫌なので、今回で最終回とさせていただこうと思います。

京二君は、いつもは現金書留で実家にお金を送っていたのですが、以前もらった手紙に、妹が寂しがっていると母親からの手紙に書いていたこともあり、非番の日にこっそり家に帰ってきたのでした。

「ただいま・・・」
そう言いながら、ドアを開けようとすると・・・鍵がかかっています。
「あれ、買い物にでも行ったのかな」
独り言を呟きながら、京二君は玄関の扉を開けるのでした。

入ってすぐの台所には母親の姿は無く、奥の部屋もシーンと静まったままでした。
「誰もいないのか・・・」
そう呟きながら、京二君は奥の部屋にどっかと座って、母親の帰りを待つことにしました。寮では無く、久々の実家です。
やはり落ち着けます、寝転がって天井を見るとも無く眺めていると次第に睡魔が襲ってくるのでした。
気がつけば、そのまますやすやと寝入ってしまいました。

まさか、京二君が家に帰っているとは知らないお母さんと幸子ちゃんは郵便局近くの商店街で買い物をしているのでした。
当時は大きなスーパーマーケット等無くて、殆どが地元の商店街で買い物をするのが一般的でした。
今日は、サンマが安いよ・・・、コロッケどうですか・・・威勢の良い声が道の両側から聞こえてきます。
幸子ちゃんはお母さんと買い物に来るのが大好きだったのでした。
 「お母さん、コロッケを買って欲しいの」
幸子ちゃんが早速お母さんにおねだりです。
「困った子だね、今日は買わないよ・・・」
そう言いながら、ふっと京二君のことが頭に浮かんだのでした。
そういえば、京二もコロッケが好きだったねぇ。
「仕方が無いねぇ、コロッケ6つくださいな」
母親はお店の大将に話しかけます。
 「コロッケ6つね、 毎度おおきに」
そう言ってにこやかに、店の大将は手際よく揚げたてのコロッケを包むのでした。
幸子ちゃんは、コロッケを買ってもらって大満足
まさか、京二君が帰ってきているなんて夢にも思っていませんから、一人で2個食べられると思ってもうわくわくです。
それを察したのか、母親が笑いながら。
「今日は一つ、明日も一つだからね」
幸子ちゃんは、少し不満そうに「はあーい」
少し不機嫌そうです。

さて、家では京二君が母親と妹の帰りを待っているとも知らず、家に帰ってみるとドアが開いているので、びっくり。
「鍵掛けたよね」・・・、お母さんは幸子ちゃんに尋ねます。
京子ちゃんも、「お母さん、鍵、掛けていたよ・・・」
でも、実際にはドアが開いている。
もしかしたら・・・。
二人は恐る恐る家に入ってみます。
玄関先には誰もいません、たださほど広くない部屋の奥の方から、寝息が聞こえてきます。泥棒?  ・・・お母さんはふと身構えます。
しかし、何も盗るものなんて無いのにね。
そう思いながら、片手にはほうきの柄をもって、奥に進んでいきます。
そこで母親が見たものは・・・、続く
なんて書いたら怒られそうですね。

京二君が寝息を立てて寝ているではありませんか。
なんだ、京二か・・・。
その声に目覚めた京二君、お母さんが座り込んで片手には箒をもって立っています。
目覚めた京二君、先輩が立っているのかと勘違いして、
 「ごめんなさい。つい寝てしまって」
大きな声で叫びます。
「あんた、いつ帰ってきたんだい」
母親が驚きつつも笑いながら話しかけます。
 「か、母ちゃん・・・?」
ばつが悪そうに、頭をかきながらにっこり微笑む京二君でした。
「お母さん、大丈夫・・・?」
玄関の方から幸子ちゃんの声がします。
「大丈夫だよ、それより・・・」
そう言いかけてわざと黙ってしまいました。

「お母さん、・・・」
そう言いながら少し不安そうに家に入っていくと、奥の部屋から懐かしいお兄ちゃんの声が聞こえてきます。
 「お兄ちゃん? 帰っているの」
幸子ちゃんが思わず叫びます。
その声を聞いて、京二君も
「幸子ちゃんか?」
思わず聞き返します。
「お手紙を書いたんで、お兄ちゃんが帰って来た」
幸子ちゃんは満面の笑みを浮かべながら話しかけます。
お母さんも苦笑しながら
「幸子がね、京二が帰ってこないからお手紙を出すんだっていって、さっきポストに入れたばかりだったのよ」
母親が笑いながら話します。
京二君もこの偶然にはびっくりしてしまいました。
笑いながら、今日は家に泊まっていくことを告げると、幸子ちゃんはもう大はしゃぎ。
京二君も改めて我が家は良いなぁ、と改めて思うのでした。
夕方には、幸子ちゃん以外の弟や妹も帰ってきて突然の兄貴の帰宅に大喜び
すぐ下の弟からは、職場のことを質問されます。
弟も国鉄を受けようとして学校の先生にお願いしているところだったのでした。

母親からは、何時もお金を送ってくれるので助かっているよと言われて少し恥ずかしい気分になった京二君でした。
それと、時々はうちに帰ってきておいで、弟たちが喜ぶからね。

そう言われて、改めて、月に一回くらいは家に帰ってこよう、それにもしかしたら自分の後輩になるかもしれない弟に仕事を教えてやろう。
そんな風に思う京二君だったのです。

終わり

2018年1月 7日 (日)

気動車区、向日京二君の思い出話 第4話

  「じゃぁ、行くよ」

と言って家を出ると幸子ちゃんの手を握りながら郵便局に向かって歩いていくのでした。

続きます。<(_ _)>

と書きながら、また1ヶ月も放置状態になってしまいました。
申し訳ございませんでした。

早速始めたいと思います。

郵便局までの道すがら、幸子ちゃんは、お母さんに質問します。
「お兄ちゃん、いつ帰ってくるの?」
「来週かな。それとも・・・」

お母さんは苦笑しながら、
「幸子、お手紙を出したからと言ってすぐ帰ってこれないよ」

そう言われると、幸子ちゃん少し不満そうにほっぺをカエルのように膨らませて、
「えー、そうなんだ。つまらない」
とぼやくのでした。
お母さんも、京二君のことが心配なのですが、返事が無いのは元気な証拠と思うようにしていたのでした。

そして、こちらはところ変わって、京二君
母親からの手紙が楽しみで、現金書留で送っていたのですが、まさか心配されているとは夢にも思っていませんでした。

今日も、気動車のエンジンと悪戦苦闘しているところでした。
「京二、やけどするなよ・・・」                           
同僚の、長岡君が声をかけます。
今日は、エンジンをばらしてガスケットを交換するのでした。
ヘッドが外されガスケットが顔を出してきます。
向日町運転区は、気動車と電車がありますが、向日君は、気動車専門でした、気動車は山陰線と草津線、奈良線で使われていましたが、奈良線特撮線は、奈良運転区が担当しており
向日君たちが所属する向日町運転所は、山陰線の優等列車からローカル列車まで担当していました。
国鉄の気動車は、その殆どがDMH17系エンジンと呼ばれるエンジンを採用しており、このエンジンの整備の仕方を覚えれば殆どの気動車は同じ機構なのですが、実はやっかいなことにこのエンジンには縦型と横型があり、横型の場合はガスケットは床下から直接交換できるのですが、縦型エンジンの場合は車内の床板を開けてから作業しなくてはならず、冬場は良いのですが夏場などでは暑い車内での作業は大変でした。
主に普通列車に使われる、キハ10系気動車や、20系気動車が縦型エンジン、急行形と呼ばれた気動車や特急気動車は横型エンジンと異なっていますので、夏場だと急行形や特急形のエンジンの検修だとラッキーと内心で思い、冬場は縦型エンジンだとラッキーと思うのですが・・・なかなかそうは問屋が卸してくれる訳も無く、夏場にキハ17等の特に車体幅も狭い車両で整備する場合もあり、この時だけはさすがに向日君も、,いやな仕事だなぁと思うのでした。

さて、ここで再びお母さんと幸子ちゃんの様子を見てみたいと思います。

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2017年12月 5日 (火)

気動車区、向日京二君の思い出話 第3話

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しばらく間が空いてしまいましたが、再び投稿させていただきます。

今日は、向日君のお休みの日の話をさせていただこうと思います。

京二君は中学校を卒業すると迷わず国鉄に入ったのですが、当時は給料をもらうと家計を助けるというのが一般的でした。

京二君も給料を貰った次の公休日には、自分が使いたい僅かの小遣いを残して家族に渡すのでした。

休みの日に家までもっていくこともあれば、時には郵便局から現金書留で送ると言ったこともありました。

現金書留で送るときは、必ず母親が手紙を書いてくれるのでした。

それが京二君には嬉しくて、最近は家に帰らずにもっぱら書留郵便で送るのでした。

 

それまで、毎月家に帰ってきていた京二君が実家に戻らず、現金書留だけ送ってくるものだから今度はご両親が心配してしまうのでした。

 

今のように携帯電話等ありませんから、ちょっと心配になってきます。

妹は、お兄ちゃんが帰ってこないと心配するのでした。

 

さすがに、母親も気になってお父さんに相談するのでした。

「京二に何かあったのかね?」

 

 「むしろ、便りはないのは元気な証拠っていうじゃないか、元気にやっているのだろうよ。」

 「あんまり気になるのだったら、妹も心配しているから今度帰ってこいとでも手紙書いてやれ。」

 

父親はぶっきらぼうに答えます。

京二君の父親は、小学校しか出ておらず苦労して子供たちを育て上げた職人でした。

字を書くのも読むのも苦手なので。手紙を書く役はいつも母親だったのです。

 

「まぁ・・・」

 

母親は苦笑しながらも、便せんに手紙を書き始めるのでした。

 

京二、お母さんです。

いつも、お金送ってくれてありがとうよ。

お前が働いてくれるお陰で、とても助かっているよ。

でも、お前が働いたお金なんだから、好きなものを買ってもいいんだよ。

それとね、下の小学校2年生の妹が、兄ちゃんいつ帰ってくるの?って毎日云うんだよ。

お兄ちゃんは、お仕事で忙しいんだと言うんだけどね。

毎日、毎日、お兄ちゃんと遊ぶんだ・・・といってなかなか聞かなくてね。

京二も忙しいだろうけど、今度休みの日に帰っておいで。

京二の大好きな草餅沢山作っておくからね。

 

お父さんは相変わらず、無口だけど。

お前が国鉄に入ったことが嬉しくて仕方ないらしくて、俺の息子は国鉄で働いているのだ・・・と家で晩酌しながらいつも、いつも言っているのだ。

だからね、今度帰ってくるときは制服着て帰ってきてくれると父ちゃん喜ぶとから。

 

母より

 

母親は、早速書き上げると封筒に宛名を書き始めるのでした。

京都府向日市****

国鉄向日町気動車区内

     向日 京二様

 

そうして手紙を書き終えると、学校から帰ってきて宿題をしていた下の妹に声をかけます。

「お兄ちゃんに手紙出すから一緒に行くかえ?」

「お兄ちゃん?」

その言葉を聞いて、急いで母親の前にやって来る妹の幸子ちゃんでした。

 「なんだ、お兄ちゃん帰って来たんじゃないのか?」

「だから、今からお兄ちゃんに手紙出しに行くんだよ。」

母親がそういうと母親が持っている手紙をひったくるようにして、私が出して来る・・・と言って表に飛び出そうとします。

母親は苦笑しながら、「切手貼ってないから郵便局に行かなくちゃ。」

そう言われて少しだけばつが悪そうな幸子ちゃんです。

母親は、

「じゃぁ、行くよ」

と言って家を出ると幸子ちゃんの手を握りながら郵便局に向かって歩いていくのでした。

続きます。<(_ _)>

2017年11月14日 (火)

気動車区、向日京二君の思い出話 第2話

検修の合間に聞かせてくれたのでした。

そんなお話を次回以降させていただこうと思います。

京二君は、デイゼル機関の修理であり、エンジンを分解するためどうしても作業服は油で汚れがちになります、時には顔に思わず髭が伸びたりしています。

「向日、偉くなったもんだなぁ髭なんか伸ばして」・・・時々班長が笑いながら声をかけます。

 「す、すみません、」

慌てて手でこするものだから余計に顔全体に広がって・・・。

「向日、取りあえず顔洗ってこい。ここはいいから。」

そう言われると、慌てて一礼して手洗いに向かう、向日君でした。

顔を洗って戻ってくると、班長が笑いながら、
「向日、慣れないから大変だろうけど経験が大事だからなぁ」

そう言うと、京二君に話しかけるのでした。

「俺が、ちょうどお前くらいの時に丁度、「まつかぜ」や「かもめ」に使っている80系が新規で配置されたんだ。」
Dc81blackcat2
「前年に作った、81形(はつかり形)というのがエンジントラブルばかり起こすもんだから新聞の格好のネタにされてなぁ。、国鉄の偉いさんも参ってしまって、翌年にうちにも特急気動車が配置されると聞いたときは、組合としても壊れない車両を入れてくれと申し入れたものさ。」

 「そうなんですね。」
すかさず、京二君も相槌をいれます。
更に班長は雄弁に話し出します。

「当局の偉いさんも、本来であれば10月の改正であるが、大事を取って約1か月間は通常ダイヤに乗せて毎日運転することになったんだ。
白鳥なら。大阪から青森まで直通運転させただろう、14両編成でエンジンが20個近くもあるのだが、帰ってくると所々エンジンが動かなくなTetsucafe_tennouji1 っているのが幾つかあるわけ。」

「それをだな、その日のうちに修理しろと言う訳だ。」
「それはそれで大変でな、連日深夜の泊りのものが修理するわけだが、エンジンが焼き付いている場合もあるが一番多かったのがガスケットが壊れる奴だな。」

何ですかそれは?
ちょっと興味津々に向日君が質問します。

エンジンのヘッド開けたら、銅製のガスケットがあるだろう。

「はい、知ってます。」

向日君が元気に答えます。

ちょっと苦笑しながらも班長が、

「あのガスケットの間の銅板が割れて繋がってしまう事故が多々あってな。」
「出力が下がるし、オイルを余分に食うから最悪エンジン焼き付き起こすこともあるんだ。」「だから早めに発見してやるんだけど、青森や長崎まで走ってくるからは大変だぞ。」

「特に、白鳥なんか帰ってきたらエンジン5から6台くらい動かないのが当たり前だったからなぁ。」

班長は、当時のことを思い出しながら話します。

さらに、こんなことも。

「特に冬場は大変だったわ、台車とか他の機器類に雪がこびりついて取れなくてな、作業中に溶けて頭に雪の塊を直撃されたこともあったなぁと。むち打ち症になったやつもいたっけ。」

「え?そうなんですか。」
素っ頓狂な声を出して驚く、向日君に班長は、

「冗談に決まってんだろう、本当に向日は人を疑うと言うことを知らないなぁ」

班長は笑います。
「まぁ、それがお前のいい所なんだけどね。」

班長は目を細めて笑うのでした。
さて、そろそろ向日にも新しい仕事を教えてやるとするか。
そういって、向日君の背中を軽くポンと叩く班長は、まるでお父さんのような気持ちになったのでした。

続く

2017年9月 7日 (木)

鉄道公安官 こぼれ話

Img_8944 皆さんこんばんは、長らく開いてしまいましたが、久々に更新させていただきます。
今回は公安官の実話を参考に、自分なりにアレンジしたお話と言うことで書かせていただこうと思います。
どうかよろしくお願いいたします。

今までは物語が中心でしたが、少しだけ毛色を変えたお話を少しだけさせていただこうと思います。
皆さんにとって、鉄道公安官(正確には鉄道公安職員)というのはどんな存在かご存知でしょうか。

公安職員は、国鉄職員から選抜されたもので、身分が国鉄職員であることに変わりありません。
警察官と異なるのは、公安官はその権限が鉄道構内に限られるということであり、警察官の様にどこでも権限があるわけではありませんでした。
また、公安室長から駅長になったりするルートもあり、公安官になったから一生公安官で鉄道人生を終わるということではなかったようです。
また。階級章に代わる標章は指揮命令系統の明確化のためにありましたが、警察のような階級という位置づけではありませんでした。

さて、それではこれから始めさせていただくのですが、いつものようにある主人公に話して物語を進めたいと思います。

今回の主人公は、鉄道公安室長を最後に勇退した中里雄二さんのお父さん、史郎さんの物語です。
中里史郎さんは、大正9年(1920年)生まれ、既に他界されていますが、元々日記をつけるのが日課だったそうで、遺品を整理していたら大学ノートに公安官時代の思い出を書き綴ってあったそうです。
雄二さんの了承の元、史郎さんの日記からお話を綴らせていただこうと思います。

初めまして、今日は私の父、史郎が国鉄の公安職員だった頃のお話をさせていただこうと思います。
史郎、私の父ですが、鉄道省に入ったのは高等小学校を卒業してからすぐに採用されたそうです。
その後、召集されて軍隊に入隊、召集解除後は当時としては大きな体格を生かして、鉄道公安官上司から推薦されてそのまま退職まで鉄道公安職員として働いたそうです。

今回のお話は、史郎さんが鉄道公安官になったのは昭和23年、本当に鉄道公安官が最初に出来た頃のお話です。

公安官制度が設けられた背景には、当時の犯罪の多さがありました。
戦争で人の心も荒み、毎日の生活が精一杯の時代、置き引き、万引きは言うの及ばず、闇屋の横行など、秩序維持のために取締っても取締っても、雨後の筍の様に生えてくる犯罪者には車掌だけでは限界に達していました。
昭和22年(1947)年1月22日に試験的に東海道線・山陽線の長距離列車(東京~博多)の列車について、警察官による警乗を開始したところ犯罪抑止に大きな力を発揮したと言われていますした、しかし、運輸省(当時)にしてみれば縄張り意識もありますから、自前で警備する職員を専門的に養成しようとして生まれたのが鉄道公安職員制度であり、昭和22(1947)年4月、鉄道当局自らの治安維持担当官として設置されたました。

父、史郎はその1期生でした。

列車の中は犯罪も多く、常に目を向けていないといけない状況だったそうです。
特に夜行列車の場合は、非常に薄暗く、殆ど相手の顔も見えないほどの暗さであったため、置き引きなどにしてみれば仕事がしやすい環境だったのです。

今回のお話は夜ではなくお昼のお話だったそうで、まさか上官が‥という話だったそうです。

さて、早速お話を続けさせていただきましょう。
日記によりますと、昭和23年5月9日だと書かれています。

坂本公安官と二人で乗務したらしいのですが、デッキに枝肉(頭部,尾,四肢端などを切取り,皮や内臓を取除いたあとの肉)を無造作に竹かごに入れてあったそうで。正直あまり気持ちの良いものではない。
そこで、その持ち主を探すことになったのだが・・・。
坂本公安官と手分けして、持ち主を探すことに。
「デッキの荷物は誰のですか」

そう声をかけていくと、車両の真ん中付近で声がする。
 「へい、あっしのです。どうかしましたか・・・。」

中年の担ぎ屋風の男が返事します。

「ちょっとデッキまで来てもらえますか、」
そう言ってデッキに戻ると坂本公安官も先ほどの場所に戻っていました。
持ち主が見つかりましたよ、こちらに来るように言いましたので、そう告げる間もなく先ほどの担ぎ屋風の男がやってきました。

早速、坂本公安官が話しかけます。

「これは、あんたの持ち物ですか。」

 「へい、あっしのですが・・・」
少し怪訝そうな顔をしています。
いや、こんなものむき出しだったらいくら何でも気味悪がる人もいるだろう、新聞紙で包むなどしておかないと他の客が気持ち悪がろう・・。」

そう言われて、それもそうだと思ったのであおろう。

 「旦那、早速新聞紙で外側だけでも見えないようにしますんで・・・そう言いかけて改めて史郎さんの顔をしげしげとみたのです。

最初は、何か恨みごとの一つでもと構えて居たら、やがてニッコリと笑うと、

「あれ、中里一等兵ではないか・・・・」

そう言われて、もう一度担ぎ屋の男の顔をよく見ると・・・、自分がかつて所属していた海軍の兵曹長だったのです。

厳しかった帝国海軍の思い出がよみがえったのであろう、史郎は直立不動で、先ほどの担ぎ屋に敬礼し、
「はっ、兵曹長殿でありましたか、大変失礼いたしました、どうかお気を悪くなさらないでください。」

困ってしまったのは、先ほどの担ぎ屋の男性で

苦笑いしながら、
「俺が悪いんだから、そんな固くならないでくれよ。今日のところは許してやってくれよ、気を付けるからさ。今はこれが生業でね。」

そう言われると、史郎は再び直立不動で敬礼し、

「は、それで結構であります。次回からはよろしくお願いいたします。」

まさか、自分の警乗中の列車にかつての上官が乗っていようとは夢にも思わなかっただけにちょっとしたハプニングだったそうです。

その後、担ぎ屋の男が枝肉に新聞紙を巻いていたのかどうかは書いていませんが、その日の日記には、

若い時に経験したことは、何年たっても昔の癖が出てしまうものだ・・・。
と綴ってありました。

史郎さんの日記には、この後も様々な出来事が綴られていたのですが、それはまた次回のお話とさせていただきましょう。

2017年7月29日 (土)

機関助士 佐倉一郎の思い出話 一人語り

皆さまこんばんは、長らく空けてしまいました。
申し訳ありません。

蒸気機関車の話というのは、中学校の頃に読んだお話を記憶を元に書いていますのでさすがに無理があるのであと2回程度で終わりにしたいと思います。

さて、今回のお話は、釜で弁当を温めたというお話。

蒸気機関車というのは常に石炭を燃やして蒸気を作り、その蒸気を使って走らせているわけです、特にディーゼル機関などと異なり運転台のすぐ前でボイラーが燃え盛っているわけですから、運転台は非常に高温になります。
本日も、佐倉君の口から語っていただくことといたしましょう。
ただし、今回は佐倉君の一人が足りという設定になります。

みなさん、佐倉です。
皆様と直接お話するのは初めてですね。
機関車の中であれば機関士としか話をする機会もなく、機関車の乗務交代も特段仕事以外の話はしませんので、こんな風にお話するのはどうも苦手ですね。

さて、私も半年もすると投炭の技術も向上して、比較的缶水のゲージなども見る余裕が出来たのですが、最初の頃は投炭が精一杯で蒸気圧の計器ばかり見ていて機関士に叱られたものです。
へそ溶かしたらどうするんだと・・・おっと、へその話はまたの機会にさせていただきますね。

今回は、「臍(へそ)で茶を沸かす」ということで、機関車の臍では茶は湧きませんが、機関士は弁当を良く缶の上に置いておいて温めてから食べるなんてことはしていましたよ。

当時は弁当箱と言えばアルマイトの弁当で、特に機関士もドカベン(屋外作業員さんがよく使うような大きな弁当箱味(決して差別的な用語ではないことをお断りしておきます))を缶の上に置いていましたね。
適度な温かさになるということで、私も言われましたが、当時はまだ独身だったのと、さすがに気が引けてしませんでしたが、結構温まっていたようです。
実は一度だけしたことあるんですけど、おにぎりが熱くなりすぎて・・・落っことしてしまって食べられなくなって悲しいことが有ったのでそれからは止めました。苦笑

でも、お茶は必須でしたね。
当然のことながら水分を補給しないと汗が大変なんです。
機関車には何トンも水を積んでいますが、浄化された水でもないのでさすがに飲用には向かないので・・・。
テンダの水飲んで乗務に穴をあけましたなんていうのは、へそを溶かすのと同じくらい恥ずかしいですからね。

さて、こうなってくるとなんも出てくる、臍(へそ)のことが気になりますよね。
臍を溶かすというのは蒸気機関車の安全を守る装置の一つで、未然に体気を防ぐための装置なんです。
まぁ、安全弁とは異なり最後の手段みたいなものですかね。
缶の水槽部下部に1か所だけ穴をあけておいてその栓を比較的低い温度で溶ける金属で作っておくんです。

それが先ほどの缶水のゲージの話になるわけです。
缶水のゲージが減ってきていたら給水ポンプで給水して一定のところまで入れておく、先輩機関士の話では、終戦直後などは石炭の質が悪く(産出量が減ったうえ高級炭は進駐軍専用列車に回されて泥炭などが混じったものが回ってきて石炭を焚いても焚いても蒸気が上がらず臍を溶かし方ことも有ったそうで、その時は乗務の機関士にこっぴどく殴られたと言っていました。
臍を溶かしてしまうと当然のことながら修理となるため缶は使えず、余分な経費もかかるわけで、機関士、機関助士の間では、臍を溶かすことは乗務員最大の恥辱として語り継がれてきたのです。
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私も一度だけですが、危ない時がありました。
蒸気がなかなか上がらない機関車で、一生懸命投炭していたら、浜田機関士だったのですが、佐倉、すぐ入れろ(給水せよという意味)と言うんですね。
私もそれまでもゲージ見ていたので大丈夫だと思っていたのですが。機関士の言うことですので少し不審に思いながらも給水を開始したのですが、しばらくすると今度はゲージがどんどん下がっていく給水しているのに・・・焦ったものですよ。

「浜田機関士、給水ポンプ動きません」

真顔で言ったものです。
それを見て浜田機関士が、日頃笑わないのにこの日だけは大声で笑いながら。
佐倉、今下り勾配に入ったんだ。
お前も乗務していたら知ってるだろう、ここから連続下り勾配だ機関車が今度は下向いているから水が前の方に移動しているからゲージが上がらないように見えるんだ。

そう言われてみると、少しづつゲージは上がっていきます。
再び、浜田機関士の声がします。

「もうそれ位で良いだろう、今度は弁吹かすからな。(弁、安全弁のこと、上記を過剰に作りすぎるとこれまた缶の爆発防止で弁から蒸気が吹き出すため。)
こちらも結果的には不経済運転となるので。安全弁を吹かせるのも機関士仲間では恥なことであったのですよ。
ほら蒸気機関車の上に2本真鍮で作られた小さな筒があるでしょう。
あれが安全弁なんですよ。
Img_8965
おっと、気が付けば長々とお話してしまいました。
でも、こんなお話本当に皆さん面白いですか?

あと1回お話をと言われているのですが・・・。
最後は、石炭ではなく重油で機関車を走らせたお話をさせてもらいますね。

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